2018年12月12日水曜日

冬になった


『夕陽のあと』という映画の撮影で九州の離島へ行ってきた。
撮影の合間を見つけて毎日よく歩いた。


漁師町なので猫が多い。至るところで出会う。そして人懐っこい。昔から、漁師たちは採った魚をさばいてまだトクトク動いている心臓を猫にあげたという。


海の色が場所によって違う。きっと季節によっても違うんだろうな。
「とわ号」。
 

素晴らしい出会いがたくさんあって、思い返しては胸が温かくなる。
また会いに行く日まで。



ピントスコープでの連載「やっほー!シネマ」が更新されました。第5回目のテーマは「女友達」です。久々に会った幼馴染の友人と地元を散歩したときに、彼女とここ最近一番印象深かった映画について話したときのことなどをつらつらと。
今回書いていて、「自由」であることと「孤独」であることは表裏一体なんだなあ……としみじみ思った。今の自分のいる場所から見えること、感じたことを書いてみました。

2018年10月7日日曜日

秋になった


映画のコラムサイト「PINT SCOPE」での連載が、今回で4回目になった。締め切りのある人生は早く過ぎると言ったのは誰だったかな、確かに気づけばもう10月。
毎回、担当をしてくれるMさんとテーマを一緒に考えながら書かせてもらっている。いつも自分がぼんやり感じていることや日々のあれこれを文字にして誰かに伝えるのは難しくもあり、楽しい作業です。

1回目のテーマは「はたらく」だった。
もともと「働く」には「傍を楽にする」という意味があるということをMさんから教えてもらう。うーん、深い。

2回目のテーマは「出会い」
私の出会った唯一無二の“場所”についての思い出に加えて、ドキュメンタリー映画「築地ワンダーランド」のことを書いた。ここに出て来る人達の背中をずっと見ていたいと思ったので、最近のニュースは胸をえぐられた。この類のない歴史ある場所を無形文化財にしてほしかった。


3回目のテーマは「恋」だった。
恋は盲目…ということで、汗をかきかき人生初のラブレターを書きました。

そして4回目の今回は、秋なので「読書」。 子どものころのことを思い出しながら。



最近、時間を忘れて読んだのはこんな本たちだった。面白い本と出会うと、世界の見方がどんどん変わっていく。

●『舞台の水』太田省吾著
去年出会ったこの本を、今後繰り返し読むことになると思う。

●『〈在る〉ことの不思議』古東哲明著
朝起きて手足をぶらぶらしながら、「なんで私の意識はこの身体の中から世界を見ているんだろう」と不思議に思ったり、都会の交差点でふと月を見上げ、100年後のことを思ったりするとき、そういう言葉にならない想いや感覚が、言葉になっていることに静かに興奮した。

●それと、これは読書ではないけれど、最近「ラジオ版学問ノススメ」という番組を、部屋の片付けをしたり長距離バスに乗っているときに聞くのが好き。みんなそれぞれ声がいい。どうしたらこんな魅力的な声になるのかなーと思いながら耳を傾けている。
長田弘さんのお話(イエス/ノー、0/100かじゃなくて、1から99の間のアイマイな領域っていうなかにある力が大切なんじゃないか)、池澤夏樹さんのお話(古事記の現代語訳の朗読は面白くて笑った)、養老孟司さんのお話(世界は自分の外にある。自分は他人との関わりの中で存在している)、面白かったなあ。


2018年7月27日金曜日

今夏のお知らせ


いつも “音” が連れていってくれる。
まずはじめに「あ、いいな」と思う音があって、
そのうしろをついていきたくなって、
盲目のまま手をひかれていくと、
「ああ、こんな風景を見てみたかったんだ」と思える場所に立っている。

映画「菊とギロチン」で役を演じるときに毎日聴いた “音” があった。
わたしはこの桜川百合子さんの声に誘われて踊りながら台本を読んだ。
調べると、もう亡くなっているというのでとても残念だったけれど、声の中にある魂は聴く人がいるかぎり受け継がれていくんだなあと思った。



映画「菊とギロチン」、テアトル新宿で始まっています。
お誘い合わせのうえ、ぜひ映画館に足を運んでみて下さい。いろんな魂がこもった作品です。🍉

2018年6月30日土曜日

最近のことなど


吉祥寺美術館で、江上茂雄さんという画家の絵を見た。
「風景日記」という展示のタイトルの通り、正月と台風を除く毎日、自宅から歩いて外に出かけ、一日一枚の絵を仕上げたという。何枚も「同じ風景」が出て来るけれど、一つとして同じ印象のものがない。
江上さんのメモより。
「一喜一憂せず、一生懸命やろうと決めてから、だいたい風景を描きました。風景だけが優しかった。自然は誰にでも同じ姿を見せてくれる」
「絵の修行の上で、非常に良かったことというのは、一定の時間、ひとつのことに集中するという、もう絶対そこから外れない、それの練習になったと思います」
こんな人がいたんだ。




「午後の光」の稽古が始まっている。
太田省吾さんの台詞は一見シンプルなのだけど、その奥に何重もの地層が重なっていて、やるたびに化石の欠片が発見されていく。「同じ言葉」なのに何でだろうと不思議。
この作品を毎年お盆の時期にできたらいいな、とちょっと思っている。だんだん年をとっていけば、見える風景も変わってくるだろうし、おのずと作品も変わった印象として立ち上がるだろう。今年の夏は、とにかくいまの自分たちが出来ることを精一杯やりたい。





もうPHSは製造もやめるし利用もできなくなりますという葉書が届いた。えー。このシンプルな電話だけができる電話、せっかく愛着が湧いていたのになあ。というわけで再びスマートフォンになった。やはり便利ですごいねと思う。と同時に「そんなにいろいろ気を使ってもらわなくていいんだけど」と肩をポンと叩きたくなる時もある。うまく付き合っていきたい。



2018年6月13日水曜日

私にとっての「楽しくもあり」


朝、公園を散歩しながら、引き続き「楽しくもあり、楽しくもなし」という言葉について考えていた。
私が「楽しくもなし」と思うときは、こんなふうに自分は世界を見たくないという価値観を無理やり押しつけられるとき。それはとても狭い見方で、一面的で、人や物事を枠にはめないと気がすまない。本当にそうか? もっと世界は豊かなはずだし、もっと多面的で面白いはずではないか? と思う。

じゃあ自分にとっての「楽しくもあり」はどんなことなんだろうと思う。自分の物の見方を変えてくれるものが好きだ。
昔からためている「こういうことがしたいフォルダ」をのぞいてみたら、そのほとんどがダンスだったのは興味深い。


たとえば①
会議は踊る? こんな国会中継があったら喜んで見たい。


たとえば②
こんなふうに「言葉」をしゃべることも出来るのだね。誰かと喧嘩したいとき、これからこんなふうにしてみよう。相手を傷つけることもない。


やっぱり踊ると気持ちがいい。見るのも好きだし。小さい頃からそうだった。
こういうことがやってみたい。

たとえば③
手話のような踊り。踊りのような手話。素敵で繰り返し観てしまう。



こういうもので世界が溢れますように。

2018年6月5日火曜日

午後の光レッスン


「通り過ぎるのを待つの。通り過ごしてしまえば、なあんだってことになるわ」
きのう、銭湯に入りながらそうつぶやいた。
これは『午後の光』で妻が長年連れ添った夫に言う台詞だ。はじめは謎の台詞が多い戯曲だと思っていたけれど、日常のふとした瞬間に、その中の台詞たちが100パーセントの実感をともなって私の中にひゅうんと落っこちてくる。そうかそうか、こういう気持ちのときこんな台詞が出てくるんだ。
太田省吾さんが『舞台の水』の前書きでこんなようなことを言っていた。
真実の「真」は取捨選択の世界。よりよきもの、高尚なものに向かって削ぎ落としていく。一方、真実の「実」はオールOKの世界。くだらんものも、退屈なものも、なんでもかんでもある。ただそこに居るのだと。
そうかそうか、そうなのか。じゃあ「真」も「実」も、おいでおいでと同じ力で私をひっぱるとしたらどうしたらいいんだろうか。そこまで考えていたら、冒頭の台詞がこぼれ出して来た。

「楽しくもあり楽しくもなし」というこのブログのタイトルは、大学時代につけた。最初はなんだかどっちつかずで適当なタイトルだな思ったけれど、名は体を表すとはいったもので、だんだんこれが自分の人生のテーマなんじゃないかと思えてくるから不思議。「楽しくもあり」の方は放っておいても楽しめる。問題は「楽しくもなし」の方だ。どうしたら感謝と喜びを持って、「楽しくもなし」を受け止められるのだろうと。

今年のはじめ頃、私が太田省吾さんの世界に出会ってひかれたのは、その辺の答えが彼の戯曲には眠っているような気がしたからだ。予感を実現できるだろうか。まだわからない。でもコツコツと掘っていけば、いままで見れなかった風景が目の前に姿を現すと信じている。

そんなわけで、世界の見方のひとつの「レッスン」として稽古場日誌を書き始めた。夏の公演に向けて、少しずつ綴っていこうと思う。
  ↓




近所の更地になった家。
しばらく見ないでいたら、大きな花壇みたいになっていた。


2018年4月6日金曜日

DON'T SEARCH! FEEL!


「PINTSCOPE(ピントスコープ)」という新しいWebサイトに、映画コラムの隔月連載を頼まれた。私は文章のプロでもないし、映画に特別深い造詣があるわけでもない。感想を聞かれても、大抵は「あの、えーと……、面白かったです」とモゴモゴ口ごもるばかりなのに大丈夫かな。
でも、話を聞いてみると、そういうことは求められていなかった。
今は何でも「検索」できるし、あらかじめ「星(☆)」の数を確かめてから行動を起こすということも多い。これは映画だけじゃなくて、初めて行くお店や、デートスポットなんかもそうかもしれない。でも誰かの評価よりも、自分はどう感じるのかを大切にしてほしい。だから山田さんには、日常のなかで偶然出会ったものや感じたことを映画にからめて自由に書いてほしいのです。
ということだった。そうですか。それなら初めてのことだけど挑戦してみようかしら、と気を立て直していると、「あと、四コマ漫画はマストでお願いします」と言われた。……私の落書きが連載されるのかと思うと頭が痛くなるので、そこはもう考えないことにした。

というわけで、自分の窓から見えるもの、感じたことを綴っていきたいと思います。とりあえず合い言葉は「DON'T SEARCH! FEEL!」ということにした。「山田真歩のやっほー!シネマ」。はじまりはじまりです。

「Don't think! Feel!」

2018年3月24日土曜日

「午後の光」を書き写した日


今朝、布団のなかで太田省吾さんの戯曲「午後の光」を書き写した。「おもしろいわ。……ね、発見ね」と妻の台詞をつぶやいてみる。発見の物語でもあるんだな、太田さんの戯曲は。世界の見方の提示といってもいいか。劇的なものをどこかに探しにいく冒険家のような夫と、日常のささやかなもの、なんでもないものを貝殻を集めるみたいに拾っていこうとする妻。戯曲の中で二人は、イーゼルの上に置いた窓枠から世界をクローズアップして見ることを通して、世界が変わっていく。
「見方を変えるだけで、こんなふうにあなたの周りの世界を見ることも出来るんですよ」と言われているようにも思える。同じ「飲む」という行為でも、「七つの海を飲み干す」と信じて飲むと、それは劇的になるし、祈りにさえなる。同じ「歩く」のでも、ここからここまで歩くのに200年と考えると、その歩く身体はイメージに溢れ、観る人をとらえて離さなくなる。こんなふうに見てみたら、いままで退屈でかわり映えのしないと思っていたことは、奇跡のように思えてくる。

私はこの人の劇をやってみたい。
高い山すぎて足はすくむけれど、一歩ずつ登りはじめたいと思う。まず、最初の一歩は楽天的に出すことにしよう。イメージ集めをするところから。一緒にやってくれる仲間に声をかけるところから。

戯曲を写し終えて思ったことメモ(↓)
私たちがやろうとすることは、「なんでもないこと」。誰もが気にもとめないし、ましてや誰もとても劇にしようなんて思わないようなささやかなこと。そんなすくってもすくったんだか分からないような、木漏れ日のようなあれこれ。そこには生々しい実感がなければ成立しない。俳優の態度としては、おもしろく見せようとか、退屈させないように、という意識よりも、目の前の「いま、ここ、これ」をどこまで自分にとって鮮やかで切実なものにできるか。まずは全体を通して考えるよりも、一つひとつのシーン、もっと言えば一瞬一瞬のエピソードを実感をもって行うことから始めよう。その集合体が「午後の光」となればいい。



2018年2月26日月曜日

鳥たちのこと


1. 

去年の暮れ、ある方から新聞の切り抜きをいただいた。
難しいけれどいい文章だなと思ってノートにはりつけ、しばらく眺めて暮らした。



2.

この間、病気で臥せって、死んでいく女の人の役を演じた。
そのときに、ふと思い出してまた読んだら、するする溶けるように身体の中でわかった気がした。
鳥は空を信じているから飛べるんだなあ。



3.

撮影が終わって3日くらいぼんやり過ごしていたら、突然目が真っ赤になってみるみる腫れ上がった。寝れば治るかと思って、朝起きると目が開かない。目やにがびっしりと両目にくっついていて「いま開けんといて」と言わんばかりに工事中になっていた。手探りで洗面台までいき、ぬるま湯で硬い岩みたいになった両目をゆっくり溶かしたらだんだん世界が見えて来た。小岩さんのような目を隠すために、初めてサングラスを買った。

人に会いに行く予定もキャンセルして、川原の土手に座っていた。ゆっくり飛び立つ白鷺を眺めながら、「まるで恐竜だなあ」と思った。
一羽の鳩が飛んできて私の近くに止まった。一歩ずつ、一歩ずつ、にじりよってくる。ずいぶん距離を縮めてくるので見ると、その鳩、足の指が1本しかなかった。「わたしたちケガしている同士、おんなじね」と言わんばかり、シンパシーが合ったのかもしれない。しばらく私たちは広い土手で日向ぼっこをした。




2018年1月12日金曜日

明けましておめでとうございます


1. 再結成

昨日は映画「ピンカートンに会いに行く」の完成試写の舞台挨拶で、アイドルの格好をしてみんなで踊った。35歳になった元・アイドルたちが、「今さらイタい」とか「年齢ヤバい」とか「子育てタイヘン」とか、あーだこーだ言いながらも再結成に向かおうとする話。でもさ、言い訳しているうちに終わっちゃうよ! と私個人は思います。はい、何事もやってみなくちゃわからない。



2. もしもし

去年からスマートフォンをやめて、中古で買ったPHSを持ち歩いている。見た目がかわいいから買ったのだけど、驚いた。電話しかできないの。吉幾三じゃないけど、「カメラもねえ、メールもねえ、インターネットはみたことねえ」の世界です。最初はびっくりしたけど、もうなれてしまった。誰かに用があれば「もしもし」と電話をかけるし、誰かが私に用があれば「もしもし」と電話をかけてくる。なんというか、とてもシンプルだ。Googleマップなんてものもないから、毎朝今日行くところの地図を書いたメモをポケットに入れて出かける。迷うことも増えたけど、人に道を聞くことも増えた。
前からそうだったのか、最近とくにそうなのかわからないけれど、「ふと」何かと出会うことが増えた気がする。「いま何してる?」っていつも繋がっていない分、会えた時嬉しい。前もって検索しない分、偶然良いものに出会えるとすごく得した気分になる。


3. ほくほく

この間、友人が送ってきてくれた詩集を声に出して読んでみたら、とてもよかった。電話でお礼を言うと、「よかった。実はまだ読んでないんだけど、表紙の写真がいいなと思って送ったんだよね」とのこと。本にもジャケ買いというのがあるのか。友人も「ふと」いいなと思って、よく中身を調べもせずに送ってくれたのだろう。こういうことがあると、ほくほくした気持ちになる。



『ゼロになるからだ』覚 和歌子
注:ときどき誤字脱字あります。