2018年3月24日土曜日

「午後の光」を書き写した日


今朝、布団のなかで太田省吾さんの戯曲「午後の光」を書き写した。「おもしろいわ。……ね、発見ね」と妻の台詞をつぶやいてみる。発見の物語でもあるんだな、太田さんの戯曲は。世界の見方の提示といってもいいか。劇的なものをどこかに探しにいく冒険家のような夫と、日常のささやかなもの、なんでもないものを貝殻を集めるみたいに拾っていこうとする妻。戯曲の中で二人は、イーゼルの上に置いた窓枠から世界をクローズアップして見ることを通して、世界が変わっていく。
「見方を変えるだけで、こんなふうにあなたの周りの世界を見ることも出来るんですよ」と言われているようにも思える。同じ「飲む」という行為でも、「七つの海を飲み干す」と信じて飲むと、それは劇的になるし、祈りにさえなる。同じ「歩く」のでも、ここからここまで歩くのに200年と考えると、その歩く身体はイメージに溢れ、観る人をとらえて離さなくなる。こんなふうに見てみたら、いままで退屈でかわり映えのしないと思っていたことは、奇跡のように思えてくる。

私はこの人の劇をやってみたい。
高い山すぎて足はすくむけれど、一歩ずつ登りはじめたいと思う。まず、最初の一歩は楽天的に出すことにしよう。イメージ集めをするところから。一緒にやってくれる仲間に声をかけるところから。

戯曲を写し終えて思ったことメモ(↓)
私たちがやろうとすることは、「なんでもないこと」。誰もが気にもとめないし、ましてや誰もとても劇にしようなんて思わないようなささやかなこと。そんなすくってもすくったんだか分からないような、木漏れ日のようなあれこれ。そこには生々しい実感がなければ成立しない。俳優の態度としては、おもしろく見せようとか、退屈させないように、という意識よりも、目の前の「いま、ここ、これ」をどこまで自分にとって鮮やかで切実なものにできるか。まずは全体を通して考えるよりも、一つひとつのシーン、もっと言えば一瞬一瞬のエピソードを実感をもって行うことから始めよう。その集合体が「午後の光」となればいい。