「通り過ぎるのを待つの。通り過ごしてしまえば、なあんだってことになるわ」
きのう、銭湯に入りながらそうつぶやいた。
これは『午後の光』で妻が長年連れ添った夫に言う台詞だ。はじめは謎の台詞が多い戯曲だと思っていたけれど、日常のふとした瞬間に、その中の台詞たちが100パーセントの実感をともなって私の中にひゅうんと落っこちてくる。そうかそうか、こういう気持ちのときこんな台詞が出てくるんだ。
太田省吾さんが『舞台の水』の前書きでこんなようなことを言っていた。
真実の「真」は取捨選択の世界。よりよきもの、高尚なものに向かって削ぎ落としていく。一方、真実の「実」はオールOKの世界。くだらんものも、退屈なものも、なんでもかんでもある。ただそこに居るのだと。
そうかそうか、そうなのか。じゃあ「真」も「実」も、おいでおいでと同じ力で私をひっぱるとしたらどうしたらいいんだろうか。そこまで考えていたら、冒頭の台詞がこぼれ出して来た。
「楽しくもあり楽しくもなし」というこのブログのタイトルは、大学時代につけた。最初はなんだかどっちつかずで適当なタイトルだな思ったけれど、名は体を表すとはいったもので、だんだんこれが自分の人生のテーマなんじゃないかと思えてくるから不思議。「楽しくもあり」の方は放っておいても楽しめる。問題は「楽しくもなし」の方だ。どうしたら感謝と喜びを持って、「楽しくもなし」を受け止められるのだろうと。
今年のはじめ頃、私が太田省吾さんの世界に出会ってひかれたのは、その辺の答えが彼の戯曲には眠っているような気がしたからだ。予感を実現できるだろうか。まだわからない。でもコツコツと掘っていけば、いままで見れなかった風景が目の前に姿を現すと信じている。
そんなわけで、世界の見方のひとつの「レッスン」として稽古場日誌を書き始めた。夏の公演に向けて、少しずつ綴っていこうと思う。
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近所の更地になった家。
しばらく見ないでいたら、大きな花壇みたいになっていた。
しばらく見ないでいたら、大きな花壇みたいになっていた。